フラクタルとは、幾何学の概念で図形の部分と全体が自己相似になっているもののことを言う。具体的な例としては海岸線などがある。巨視的に見ると複雑に入り組んだ形をしているが、これを拡大するとさらに細かい形状が見えてくる。結果、拡大しても似たような形が見えてくる。一般的な図形は拡大するとなめらかになる。それに対してフラクタル図形はいくら拡大してもその複雑さは同じである。このような図形を線描で描くことは難しい、というか無理だ。(長さが無限であるがゆえに)しかし世界はフラクタルに満ちている。描けないものを描きたいと思う人は滑稽だろうか。それともどこかで折り合いをつけて、端折りながら描くのが正しいと言うのだろうか。
一度フラクタルの目を持つと自然界の至る所にフラクタル図形を見いだすことができる。 たとえば、空に浮かぶ雲、寒い日に窓ガラスに付着した霜、葉脈など、みなフラクタルな構造を持つと考えられる。一緒に地上の物体や飛行機などが写っていない雲の写真を見ていると、どのくらいの大きさなのか分からないことがよくある。このように固有のスケールを持たないこともフラクタル図形の大きな特徴である。
この宇宙のありとあらゆるものは共通の図形を次々とつなぎ合わせたもので成り立っていると言えるかもしれない。地上をミクロの目で見てみると。ミクロにしても凹凸は数限りなくある。決して平坦ではない。更に拡大してみても、やはり凹凸は消えない。こうして地球規模の目で眺めたときにも、山あり谷ありの凹凸は繰り返される。火星にも地球の衛星である月の表面にも、同じような凹凸が数限りない。その普遍性は有機物、無機物の区別なく存在する。そして、種を越えても存在しているのだ。例えば木を例に取って見る。木には根がある。根の部分は奇妙にも地上の部分と相似形である。その形は自らの葉っぱの葉脈にも表れている。木の根や枝と同じような形に見えるのは人間や動物の血管においても同じく。学校の理科室にあった血管の模型を思い出してみると、心臓から出た大動脈は、やがていくつもに枝分かれし細い動脈となる。そして更に枝分かれして微細な血管となって体の末端に至る。静脈も同じような構造で成り立っている。すこしスケールを大きくしてみると、川はどうだろうか。河口の大きな流れから川を遡れば、次第に枝分かれして細い流れとなる。その細い流れも更に枝分かれをし、そして一粒の雨水から始まる流れも同じような形をしているのだ。すべてが同じ形の連続なのである。川の流れには渦があり、平坦な流れに見えるところでも、障害物のあるところでは渦を巻いている。大きな渦の中には小さな渦があり、その小さな渦の中には、更に小さな渦があると行った具合に連続している。
フラクタルの概念を理解すれば、建築家が家の設計を説明するように、複雑な雲の形を正確に相手に伝えられるかもしれない。(その時の感情も伝えられるかもしれない?)
このフラクタルは生命の起源説にも重大な影響をもたらしたようだ。生き物は簡単な法則の繰り返しからつくられているのではないか? 神経構造はフラクタル図で表されるし、肺はフラクタル構造によって表面積を広くしている。 DNAもその進化プロセスで同じ原理の繰り返しから生成されたという洞察がもたらされる。
フラクタルは我々の感性にも潜んでいる。 自然の絵を描く描き手は筆で同じ動作を繰り返す。直感的にフラクタルをとらえているのである。 ゴッホの絵を見てみると同じ筆の繰り返しになっているのを見る事が出来る。(これも言ってみたらフラクタルか?)陶芸もフラクタル。釜から取り出した時に想いもよらない自然を発見することができる。そう考えると 芸術性のなかにフラクタルが潜んでいるのはたしかだろう。
フラクタル図形は不思議な魅力がある。それは美術作品を観賞する時の心の動きにもよく似ている。単純な数式が、こうも複雑な図形をつくりだすという事は、コンセプチュアルアート的でもあるし、その逆だとも言えるだろう。では、なぜフラクタルは美しいのか? フラクタルは秩序と無秩序の境目にある。そして我々もそこにいるから、か。
フラクタルとは直訳すると「自己相似」という意味となる。タマゴが先か?ニワトリが先か?と言う議論もあるが、目に見える形や色は違っていてもそこに刻まれた情報は明らかに同じものが含まれている。ニワトリはニワトリであって、ニワトリには違いないだろう。それは水が、水蒸気になったり、氷になったりしているのと似ているのかもしれない。円を描きながら渦巻き流れ循環している、そのどの部分を見ているかの違いだけではないだろうか。ミクロとマクロの世界が酷似しているように、この宇宙のあらゆるすべてのものが関連しあいながら大きな渦を形作っているのではないだろうか。それを説明しようとすると複雑が複雑を呼ぶまたは単純が単純を呼ぶ「フラクタル」となるのではないだろうか。
粘土で作品を作ることにしても、その中に、様々な人生の諸要素と深く関連し連想させるものが多く有る。造形物だけでなく、政治にしろ経済、宗教にしろ教育にしろ、何にしても混沌として無秩序のように見えるが、その中に、共通した一本の川の流れのような物が見えるような気がする。法則としての光の流れが見えるような気がする。と言ってみると、哲学的すぎるだろうか。一部の天体や物体の動きや人工物などは線形数学で記述できたとしても、それは自然界のほんの一部でしかない。複雑な自然界は実は非線形の世界、フラクタルでいっぱいなのだ。
フラクタルと芸術との関係を具体的に言うとレオナルド・ダ・ヴィンチの乱流のスケッチや、葛飾北斎の大波の版画にフラクタル的な要素を見て取る事ができる。また画家のデビット・ホックニーは自分の作品はホログラフィ的でありフラクタル的であると考えたという。M・C・エッシャーの描く世界もフラクタルそのものである。
フラクタルについて説明され、考えてみることは「混沌」を「秩序」で説明され「秩序」で考えているような、少しずれた様な変な感じがする。かといってフラクタルを単なる視覚芸術としてとらえてみるとその美しさの理由づけは十分でないような気がするのだが。。。